気持ち
夜になると自分を責めてしまうのは、なぜか
電気を消して横になると、そこでやっと一日が始まります。
昼のあいだは一度も浮かばなかった文章が、順番もなくやってきます。さっきのあの言葉は言わなければよかった。あのメールは結局送れないままだ。あの人の表情が少し変だった気がする。
体は動いていないのに、頭の中だけが忙しくなります。同じ姿勢で長く横になっていると、それはいっそうはっきりしてきます。
暗がりの中で、わたしはわたしを裁いています。裁判官もわたしで、検事もわたしです。弁護人の席だけが空いています。
不思議なのは、同じ一日なのに、昼のわたしと夜のわたしがまったく違う判断を下すことです。朝にはただ通り過ぎた出来事が、真夜中には決定的な間違いになります。夜のほうが正直だから、ではありません。
夜のほうが疲れているからです。
一日のあいだに、わたしたちは数えきれないほどの決断をしています。何から先にするか、どんな表情でいるか、どこまで話すか。そこに使われる力は目に見えないので、使い切ったあとになって気づきます。
その力が尽きたとき、まっさきに消えるのは、自分をゆるやかに見るための余白です。人は疲れると、世界を狭く見ます。そして、その狭くなった視界のいちばん近くに置かれているのが、自分自身です。
だから夜の判断は事実ではありません。疲れが下した判決に近いものです。
夜には、考えを断ち切ってくれるものがありません。昼は、別の用事が、別の人が、窓の外の音が、次々と話をさえぎってくれます。夜は誰もさえぎりません。ひとつの考えが、部屋ぜんぶと同じ大きさになります。
できなかったことは一覧になり、できたことは思い出せません。
これは変わった計算です。今日もたしかに何かはしました。ごはんを用意したり、誰かの話を最後まで聞いたり、気が進まない用事を一時間くらいは抱えていたり。それなのに、その項目は一覧にのぼりません。
友人が同じ話をしたなら、わたしはたぶんこう言ったはずです。そういうこともあるよ。今日はただ疲れた日だっただけだよ。その言葉を、自分にだけは言いません。
夜に立てる決心も似ています。明日からはちゃんと生きよう、と大きく心を決める瞬間は、よりによっていちばん疲れているときにやってきます。その決心は計画というより、疲れた心のもうひとつの顔であることが多いです。夜に浮かぶわたしの姿が、わたしのすべてではありません。
それは、いちばん疲れた時間に撮られた一枚の写真です。
とはいえ、考えるのをやめようと力むのは、あまりうまくいきません。やめようとするほど大きくなります。わたしたちはたいてい、それをもう知っています。
変えられるのは考えの中身ではなく、考えが置かれている場所です。人は決意よりも、環境のほうに多く従います。それは性格の問題ではありません。
だから、こんな夜に試してみる価値のあることは、たいていとても小さいです。心を入れ替えることではなく、体がまだここにあると知らせることに近いものです。
順番にも理由があります。まず視線を一度、部屋の外へ送ります。次に、体へ短い合図を送ります。最後に、今日あった出来事をひとつ、もとの場所に戻します。考えに反論しようとすると言い争いになりますが、視界が広がると、その言い争い自体が少し小さくなります。
まっくらな部屋より、ごく低い明かりがひとつ残っている部屋のほうがいいときもあります。暗さは、考えを実際より大きくします。もしそんな夜が何か月も続いているなら、ひとりで耐えるかわりに、誰かと話してみるのもいいかもしれません。
今夜もその文章たちは、たぶんやってきます。来ないでほしいとは言えません。ただ、それが判決ではなく疲れなのだと知っていれば、少しだけ信じずにすみます。それだけでも、夜は少し短くなります。
ルーティン
横になったまま、視線だけを部屋の外へ移してみませんか。見る場所が広がると、考えの範囲も少し広がります。
体がまだここにあると知らせる、いちばん短い合図です。頭の中から少しだけ降りてこられます。
できなかったことの一覧に押しやられたものに、もう一度ひと席つくってあげます。声に出すと、もっとはっきりします。
照明を消すかわりに、移してみるだけです。まっくらな闇は、考えを実際より大きくしてしまいます。
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